サディズムの美学という問題

 淫欲王女抄の最初のベータ版をリリースしたのを機会として、今回1つ考えさせられたことを書いておこう。

 淫欲王女抄とはプレイヤーが王女を演じるマゾゲームである。そして、王女には自由な選択が存在しない。拘束され、支配される快楽を描くためである。これは、これまでの淫欲少女抄シリーズには存在しない視点といえる。どうしても、独立した小作品を作らねばならない1つの必然性である。

 だが、そのような選択を行うと、どうしても避けられない事態が1つ生じる。それは、主人公を拘束するサディストに魅力がなければ、マゾの快楽も増進しないことである。従って、マゾゲームでありながら、サディストのあり方を追求するという本末転倒な事態に突入していく。

サディズムの美学とは

 淫欲王女抄の開発にあたって最も考えたことは、サディズムの美学であって、マゾヒズムではない。その結果として、美学を持つ3人のサディストを作中に登場させることができた。女帝ジュネラ、ダンガル公爵、ナルキメデス公爵の3人はいずれも異なる性癖、異なる美学を持っている。しかし、十分に強固で洗練された美学を持っているという点では共通している。そして、真の美学を持つ者は、異なる美学であろうとも別の真の美学を持つ者に敬意を払うことができる。

 その敬意があればこそ、女帝ジュネラをジャッジとしたダンガル公爵、ナルキメデス公爵の競りが成立する。意中の性奴隷が相手に持って行かれても、それで恨みを抱くことはない。それは、別のサディストが別の価値を創出する行為かもしれない、と思うことができるわけである。

 だが、そのためにはそれぞれが尊敬に足る美学を持っていなければならない。

女帝ジュネラの美学

 まず女帝ジュネラについては、容易に結論が得られた。唯一の女性であり、競りに参加しない彼女は、美少年が好きだと設定すれば良いのである。具体的にどう好きであるかまでは詳しく設定する必要がない。そもそも主人公は「女の身体」である以上、ジュネラの興味を惹かないのだ。逆に言えば、惹かないという要素を貫徹することで、女帝ジュネラの美学は描かれる。

ダンガル公爵の美学

 問題は、ダンガル公爵とナルキメデス公爵の2人だ。ダンガル公爵については、割と簡単に結論に達した。彼は、奴隷獣という改造生物を作ることを愛好しており、それが性奴隷を犯す光景を見ることを喜ぶ。彼が用いる手段はひたすら奴隷獣であり、言葉責めや自ら鞭で打つような行為は一切行わない。それが彼の美学だと言える。一度、奴隷獣が待つ檻の中に性奴隷を放ったら、基本的に後は酒を飲みながら見ているだけである。思い通りの結末を強制するのではなく、手塩に掛けて作り上げた奴隷獣と性奴隷が思いも寄らない展開を見せることに喜ぶ。従って、ダンガル公爵が用いるのは基本的に奴隷獣の肉体が持つ生身の力だけである。しかし、ダンガル公爵自身の生身の力は絶対に使わない。直接的な肉体の行為を、常に間接的に行使するのがダンガル公爵の美学といえる。

ナルキメデス公爵の美学

 では、ナルキメデス公爵はどうか。彼は直接的な肉体に対する行為をさほど重視しない。その代わり、精神の問題と社会の問題を徹底的に追求する。であるから、ナルキメデス公爵はダンガル公爵と違って、王女を責める必然性を持つ。つまり、社会的な地位のある者に恥辱を与えて社会評価を堕落させる、その落下の快楽を追求するには、社会的地位の高い女を性奴隷として迎えねばならないのである。それだけではない。ナルキメデス公爵の行為は、多くの場合、帝国が敗戦国を統治するための政治的手段としての側面も持つのである。そのことは、淫欲王女抄の第1ターンで発生される王女の移送手段の違いを見ると良く分かるだろう。ダンガル公爵が用意した移送手段は単に王女を責めるだけの仕掛けだが、ナルキメデス公爵が用意した移送手段は敗戦国の王族の権威を失墜させる仕掛けを兼ねている。ここにナルキメデス公爵の美学がある。彼の美学は多くの場合、肉体よりも社会的な責めという形を取り、それが精神を追い詰めてマゾ的な快楽を増進させる。単に肉体を責めるよりも、深いマゾ的な快楽が出現する。

正解のない世界

 そして、この2人の美学はどちらが正解でもどちらが優秀でもない。確かにナルキメデス公爵の美学の方が洗練されていて実利も伴うが、それでもダンガル公爵の奴隷獣が可能とする特殊な快楽を実現することはできない。つまり、唯一の正解は存在しない。

 更に言えば、この2人だけで全ての「答」を網羅することもできない。他にいくらでも洗練されたサディズムの美学は存在するだろう。その認識がもたらす謙虚さが、2大サディストと女帝ジュネラの共存のバックグラウンドになっているとも言える。

つまり美学の本質とは

 やせ我慢をしてでも、自分のスタイルを美しく貫き通すことである。好き勝手に振る舞うことは許されない。ストイックに我慢して耐えることも重要な意味を持つ。ここで、サディズムの美学は限りなく、マゾヒズムに接近するが、いかに接近しようとも常に一線を画し続けねばならないのである。それもまた、ストイックな美学だと言えよう。


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Last-modified: 2009-08-28 (金) 19:19:54