キューティー○ニー 一人称の理由

 キューティー バニー THE RAPE -MINI-はもちろんキューティー○ニーという作品が無ければ生まれていないわけだが、1つ特異的な特徴を持つ。それは、キューティー○ニーという名を冠した大抵の作品が、第3者視点から○ニーちゃんを見るという構造を持つのに対して、この作品においては○ニーちゃんの一人称視点から描写されるという点である。

 実は、このような構造には強い必然性があるので書いておこう。

キューティー○ニーの個人史

 前置きとして、キューティー○ニーの個人史を少し書こう。

 キューティー○ニーは、漫画版は別格として除外して考えるなら、1973年10月13日より放送開始されたTVアニメをスタートラインとする。

 この当時、NET(現テレビ朝日)は土曜日の午後8時台に特撮番組とアニメ番組を放送するという特異的な放送形態を取っていた。ここで放送された作品には、特撮版のキカイダー、キカイダー01、アニメのミクロイドSなどがある。もちろん、キューティー○ニーもここで放送されている。

 しかし、この当時はまだ家庭内にビデオデッキは存在せず、それどころか2台目のテレビすら実質的に無かったのである。そして、裏番組には「8時だョ!全員集合」という人気の高いお笑い番組があり、家族全員でこれを見ていたのである。つまり、本放送のキューティー○ニーは見ていない。

 その後、当時は一般的に繰り返し行われていた再放送により、キカイダーもミクロイドSもキューティー○ニーも全て見ることができた。だが、ここで1つだけ欠落したものがある。それは、エンディングである。再放送ではエンディングをカットする……というのは、当時としてはよくある普通のことだったのである。(ビデオデッキ普及期の初期のアニメファンが、本放送での録画に固執した理由の1つに、再放送ではエンディングが無い可能性が高いという理由があるだろう)

 さて、キューティー○ニーのエンディングは名曲「夜霧のハニー」である。何回目かの再放送で、初めてエンディングを見て、「夜霧のハニー」を聴いて子供心に衝撃を受けた。

 ○ニーちゃんというキャラクターの一般的なイメージは、おそらく、明るく、陽気で、お色気を振りまき、いつも前向きで、けして折れない心を持つ美少女といったものだろう。私もそう思っていた。

 ところが、「夜霧のハニー」は○ニーちゃんの内面を歌った歌であり、かつ、「誰も知らない涙」を持ち、「これでいいの」とそれを肯定し、「こうなると知っていた」と承知の上の行いであることを示し、更にはもうここにはいない誰かの声が聞こえるとまで言う。

 つまり、○ニーちゃんとは、男達の性欲を受け止めつつ戦うヒロインなどではなく、本音を隠してそのようなヒロインを演じる少女であった……ということである。

 実際に作品を思い返してみると、おそらく○ニーちゃんの本音が表に出てくるのは自分がアンドロイドだと知り、復讐を誓うあたりまでだろう。その後の○ニーちゃんは、ほとんどある種の仮面をかぶった、演技する○ニーちゃんとなる。

ならば○ニーちゃんの本音の世界とは?

 そのように考えたとき、○ニーちゃんの内面を自分なりに考え直す意味がある……と思ったわけである。

 どのような表現手法によるにせよ、それは○ニーちゃんの内面をありのまま見せる一人称の形式を取らねばならない。そして、心の痛みを抱える○ニーちゃんには、どうしても「男の愛」が必要となる。それは、心の愛ではなく、刹那的な肉体の愛でなければならない。父への復讐のために戦いの修羅の世界に身を投じる○ニーちゃんの心は、父と復讐のために存在し、他の男には与えられない性質のものなのである。

 そして、淫欲少女抄というゲームのシステムは、「肉体的な快楽を主とした女性一人称視点」という点で、実はこのような意図とストレートに合致する。

 それゆえに、淫欲少女抄のシステムを転用してキューティー○ニーという題材を同人18禁ゲームにできないか……ということは、以前から考えていた。

 しかし、到底長編ゲームを作るだけの時間があるはずもないので、ずっと棚上げになっていたのである。

 だが、本当に一発ネタの超ミニゲームで良い……という割り切りができた時点で、この企画はキューティー バニー THE RAPE -MINI-として日の目を見ることができたわけである。もっとも、お笑いが中心で、○ニーちゃんの本音の世界を描いたは言えないが……。ちらりとそういった要素も忍ばせてある。


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