以下は、開発中の天災あさおんのステータス画面のスクリーンショットである。
これを見ると分かるとおり、基本的には淫欲少女抄本編と大差はない。ただし、1つだけ決定的に異なっている部分がある。それは、社会評価のパラメータが無くなった代わりに、「体」「心」「服」という3つの性別表記が存在することである。そう……。この3つの性別表記こそが、天災あさおんが持つ性転換ゲームとしての特質を示していると言える。
昔、コリン・ウィルソンの「性のアウトサイダー」を読んで目から鱗がポロッと落ちたのは、女性の服を着る男が、必ず男を愛する訳ではない……という事実である。つまり、愛する対象が男であるか女であるかという問題と、服装として異性の服を着るか否かの問題は連動していないということである。
この問題をより詳細に分類するなら、少なくとも「性別」には4つの独立した種類があり得る。
たとえば、男の身体を持ち、女の服を着て、他の男と愛し合う者がいたとする。しかし、それは1つに分類できるものではない。本人が自分を女だと認識していれば、その行為は自然の摂理に従うノーマルな行為として認識される。間違っているのは肉体の性別であって、行為そのものがノーマルである。一方、自分を男だと認識してそのような行為を行う場合、それは明確な同性愛として認識される。この世界において、女という存在は完全に排除される。両者はそれを行う本人の気持ちにおいて、全く相容れないほどに異なっている。
天災あさおんは、女の身体になって、そして最終的に男の身体か、女の身体かを選ぶことになる。 しかし、女の身体を経由することによって、性の自己認識は流動的になる。 その結果として、ストレートに男に戻る、女そのものになるという他に、たとえば以下のような結末があり得る。
シチュエーションの多様性の他に、このような性の多義的な結末のバリエーションを楽しむのも、天災あさおんの目的の1つといえる。
天災あさおんでは、性の種類を3種類としてパラメータ化している。4種類ではやや冗長であるため1つ減らした。具体的には以下の3つである。
体の性別はストーリーの進行に従い変化する。心の性別は主にプレイヤーの様々な選択によって変化していく。服の性別は、女性の服を着ていることで良いことがあれば女側に傾き、逆であれば男側に傾く。
そして、これらのパラメータは、遭遇できるイベントの種類や内容、そしてエンディングの種類に結びつく。たとえば、街角でフェラチオしてくれる女性を待っているフェラチおじさんにフェラチオするためには、体か心の性別が「女」である必要がある。つまり、体が男であっても、心が女になっていれば、フェラチオしても良いという気持ちになることができる。しかし、体が男で服装も男である場合、いくら心が「女」であっても、おじさんはフェラチオをさせてくれない。おじさんは男にフェラチオされる趣味はないからである。
このように、同じ場所、同じ時、同じ相手であっても、3つの性別パラメータによってリアクションが変わってくるのが天災あさおんというゲームである。その結果として、たった3日間しか行動の自由がないにも関わらず、60日間行動できる淫欲少女抄本編に匹敵する濃厚な体験が可能となる。